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ボナパルト家の邸宅マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

今夏、わたくしはコルシカ島(コルス島)の南部、アジャクシオへのヴァカンスを利用して、ナポレオン1世(1769-1821)の生家を訪ねました。「美の島」とも称されるコルシカ島は、多様な自然と地中海的色彩に彩られ、それだけでも旅の目的地にふさわしい場所。海辺のリゾートや山歩きなどが、多くの観光客を惹きつけています。
そして、この土地ゆかりのもっとも有名な人物といえば、間違いなくナポレオン1世でしょう。島の中心アジャクシオはコルス地方共同体の首府で、島で一番大きな湾のくぼみのところの海と山の間に位置しています。記念碑や色鮮やかな通り、美術館、そしてディアマン広場に佇むヴィオレ=ル=デュックによる《4人の兄弟を伴ったローマ皇帝の姿のナポレオン》をはじめとする数々の彫像が、ナポレオンを思い起こさせます。アジャクシオという町全体が、この歴史上の人物の思い出を、敬愛の念とともに大切にしているのです。町の入り口には「ナポレオンの中庭」があり、町の高台にある「ナポレオン3世通り」をはじめ、通りには一族の人物の名前が付けられています。こうして、ナポレオン1世の足跡をたどって町をそぞろ歩けば、自然と彼の生家へとたどり着きます。

コルシカ島は、強いアイデンティティを持つ島です。何世紀にもわたって大国の標的となったがゆえの波乱に富んだ歴史があり、ボナパルト家にも影響を与えるような出来事も起こりました。ナポレオンの父シャルル=マリー(1745-1785)がレティツィア・ラモリーノ(1750-1836)とこの町で結婚したのは、1764年のことでした。18歳と14歳の若き新郎新婦は、ともに地元の名家出身。シャルル=マリーの叔父で、アジャクシオの副司教を務めるルシアン・ボナパルト(1718-1891)が改修したばかりの家を新居として暮らし始めました。二人は13人の子に恵まれますが、成人したのはそのうちの8人でした。

1768年、債務を抱えたジェノヴァ共和国がコルシカ島の行政権をフランスに譲ります。その後、「祖国の父」と見なされている政治家パスカル・パオリ(1725-1807)をリーダーとして独立戦争が起きます(1755-1769)。ナポレオンの父シャルル=マリーは、当初パオリを支持していたのですが、1769年、ポンテ・ノヴォの戦いで、コルシカ島が再びフランスに征服されます。ナポレオンがアジャクシオに生まれたのは、その後間もない1769年8月15日のことでした。8月15日は、コルシカ人にとって、とても大切な日です。この日はイエスの母であり、島の守護聖人である聖母マリアの祝祭日なのです。ナポレオンは2歳のときに、大聖堂の洗礼盤で洗礼を受けましたが、今日でもこの洗礼盤を見ることができます。
その後1771年、シャルル=マリーは、フランス国王ルイ16世から貴族の称号を与えられると、フランス政府と関わりを持つようになり、コルシカ島総督マルブフ伯(1712-1789)から優遇されるようになります。しかし1793年、パオリがイギリスの支持を得た蜂起を先導すると、ボナパルト一家はトゥーロンへの亡命を余儀なくされ、ボナパルト家の邸宅は略奪され、荒らされました。それから4年後、コルシカ島は再びフランスに取り戻されると、ボナパルト家はアジャクシオに帰還。ナポレオンの母レティツィアは略奪財産に対する補償金で邸宅を元の状態に戻しました。この時、アジャクシオでもっとも美しい饗宴の間となる大回廊が増設され、ミラノとマルセイユに注文した家具が邸宅に納められました。

Update : 2020.11.2

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