Francais 日本語 ニッシム・ド・カモンド美術館
informations 3 2 1 Paris, le 2 septembre 2008

▲中庭に面したファサード。
©A.de Montalembert
親愛なる日本のみなさまへ

樹々が深く生い茂り、花壇には美しい花々が咲き乱れるパリ、モンソー公園は、かつて、19世紀の終わり、ひとりの大ブルジョワがそぞろ歩きを愉しんだ場所でもありました。その大ブルジョワとは、モイズ・ド・カモンド伯爵(1860-1935)。伯爵が愛したモンソー公園を望む地に建てられたその邸宅は、世紀末の個人邸宅の雰囲気をそのままに残す唯一の遺構として、大切に受け継がれてきました。本日は、貴族階級ならではの気品と、近代的な快適さを兼ね備えたこの邸宅の素晴らしさを、皆さまにお伝えいたしましょう。



▲モンソー公園から見た美術館。
©A.de Montalembert

この邸宅はカモンド伯爵にとって、ひとつの“作品”でした。芸術をこよなく愛した伯爵は、自らの時間と財産を投じて、18世紀の調度品や芸術品のコレクションをつくり上げました。トルコ系のユダヤ人銀行家であった伯爵のお父上がフランスに居を構えたのは第二帝政期のこと。白羽の矢を立てたのは、パリ17区、モンソー通り63番地にあった邸宅でした。当時の17区には、ロスチャイルド家やペレール家といった、名だたる銀行家たちが暮らしていました。両親が亡くなると、モイズは受け継いだその邸宅を解体させ、建築家のルネ・セルジャン(1865-1927)を起用して、自らの美術コレクションのために、新しい邸宅を建てさせます。ヴェルサイユ宮殿のプチ・トリアノン宮を模したこの館で、伯爵はニッシム(1892-1917)とベアトリス(1894-1945)という2人の子どもたちにも恵まれました。


▲美術館の「青のサロン」。
©Jean-Marie Del Moral

▲美術館の入り口。
©A de Montalembert

ところが、第一次世界大戦中、空中戦により息子ニッシムが戦死するという大きな不幸が伯爵を襲います。あまりの衝撃に、以降、伯爵は世間とは距離を置くようになりますが、それでも美術蒐集には情熱を持ち続け、常に逸品を探し求めていました。1935年に彼が亡くなると、そのすべてのコレクションと邸宅が、装飾美術協会(2004年に装飾美術館になります。)とフランス国家に遺贈されました。そして、1936年12月21日、愛息ニッシムへの追悼の想いを託した、ニッシム・ド・カモンド美術館が開館したのです。


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