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  03.日本とアンリ・チェルヌスキ〜旅、コレクション、美術館〜
  日仏修好通商条約が締結された1858年、日本とフランスの交流は始まりました。
今年はそれから数えて150年目を迎える節目の年。
日仏関係に新たな活力をもたらす好機として、
両国でさまざまな記念イベントが計画されています。
MMFでは、日本とフランスの芸術交流をテーマに、美術コレクターをはじめ、
その架け橋として尽力した人々、そして彼らの情熱を宿した美術館を取り上げ、
連載記事としてお送りいたします。

連載第3回目は、旅を通じて日本美術に魅せられたコレクター、
アンリ・チェルヌスキその人と、そのコレクションを収める
チェルヌスキ美術館(パリ市立アジア芸術美術館)をご紹介します。
チェルヌスキのアジアへの旅 日本美術コレクション 邸宅から美術館へ
チェルヌスキのアジアへの旅  
アンリ・チェルヌスキ
▲アンリ・チェルヌスキ。
© Christophe Fouin/ Musée Cernuschi
 イタリアの愛国者チェルヌスキ(1821-1896)は、オーストリア占領下のミラノ解放に参加し、ローマ共和国(1848-1849)の議員を経て、1850年にフランスへの亡命を余儀なくされ、パリで困難な時代を過ごした後、第二帝政期末、銀行家として財を成しました。フランスの政治にも関わり、1871年のパリ・コミューンに深い衝撃を受けます。この事件を背景に、1871年9月から1873年1月、チェルヌスキは批評家テオドール・デュレ(1838-1927)とともに長い世界旅行に旅立つことを決意しました。
 といっても、それが主要な旅行の動機ではなかったでしょう。日本美術を既に参照していた印象派の画家たちと付き合いのあったデュレが、旅行の決定に、少なくとも行き先に日本を含めることについて大きな役割を果たしたと考えられます。コレクションを形成するというアイディアは、すぐに旅行の主要な目的のひとつになりましたが、日本到着以前にチェルヌスキあるいはデュレがその考えをもっていたかどうかは確かではありません。この旅行に関するほぼ唯一の情報は、デュレの著書『アジアへの旅』です。この本は、この世界旅行の概要と主なエピソードをふたりが横浜に到着したところから物語っています。
 
 実際、チェルヌスキとデュレの旅行は探険旅行ではありませんでした。19世紀後半、交通手段が発達したおかげで、財力のある人々にとっては世界旅行が手に届くものになっていたのです。とはいえ、ふたりは旅行の間中、よく分かっているルートをたどっていきました。1871年10月25日、ふたりは横浜に上陸します。そして、兵庫(神戸)と長崎におそらく短期間寄港したと思われます。日本での滞在期間は2ヶ月余りあり、その間、横浜から江戸(東京)へ、そして神戸からは大阪、奈良、京都へと足を伸ばすこともできました。
 日本の後も、ふたりのアジア旅行は続きます。中国(1872年2月-6月)、ジャワ(1872年6月-8月)、セイロン(1872年8月-9月)そしてインド(1872年9月-12月)。1872年12月30日、ふたりは、ボンベイを発ち、スエズ運河を通ってマルセイユへと帰路につきました。
 
*参考文献 / Michel Maucuer Henri Cernuschi, 1821-1896 : voyageur et collectionneur. Paris : Paris-Musées , 1998,p23-31  

MMFで出会えるチェルヌスキ美術館  
MMFwebサイト内、マダム・ド・モンタベールのミュゼ訪問でもチェルヌスキ美術館(2006年3月)をご紹介しています。ぜひご覧ください。また、インフォメーション・センターでは、チェルヌスキ美術館の公式カタログを閲覧いただけるほか、パンフレット(フランス語・英語)をお持ち帰りいただけます。
 
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