19世紀に活躍したフランスのバルビゾン派の画家、シャルル=フランソワ・ドービニー(Charles-François Daubigny/1817-1878)。ドービニーが1860年代に移り住んだオーヴェル=シュル=オワーズには、今もドービニーの住居兼アトリエが残されています。ゴッホ(Vincent van Gogh/1853-1890)終焉の地としても有名なパリ近郊のこの小さな町は、数々の芸術家が訪れた土地。そのきっかけを作ったのは、多くの画家たちから親しまれたドービニーの存在でした。
自然に満ちたのどかな風景画の数々を残したドービニーは、コロー(Jean-Baptiste Camille Corot/1796-1875)やミレー(Jean-François Millet/1814-1875)をはじめとしたバルビゾン派の中心的なメンバーのひとり。1843年にパリ近郊のバルビゾンに活動拠点を置き、仲間の画家たちと、森の中にイーゼルを立て、詩情溢れる自然の風景を描きました。とりわけ池や川などの水辺の風景を頻繁に描いたドービニーには、「水の画家」という異名があります。その異名のもとになったのは、「バトー・アトリエ/Bateau-Atelier」という船上のアトリエの発明です。ドービニーは好みのモティーフである水面を、より近くで描くために、小船の上に小屋を作り、それをアトリエとして使ったのです。船を購入した1857年以降、ドービニーは毎年夏になるとオーヴェル=シュル=オワーズへとやってきて、「ボタン号/Botin」と名づけられたこの船で、オワーズ川の水面から眺めた豊かな自然を描きました。この船上のアトリエというアイデアは、のちに印象派の巨匠、クロード・モネ(Claude Monet/1840-1926)にも受け継がれました。
1860年、オーヴェル=シュル=オワーズに土地を購入したドービニーは、住居兼アトリエを建設します。その計画を後押ししたのは、ドービニーと20歳もの年齢差にもかかわらず、たいへん親しい仲にあったコローでした。建物が完成すると、コローは内部の装飾にも積極的に協力し、大切な友人のアトリエのために壮大な壁画を仕上げました。
ドービニーはこのコローとともに若手のアーティストを支援したことでも知られます。審査委員を務めた1868年のサロンでは、当時まだ世間に認められていなかったモネ、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir/1841-1919)、ピサロ(Camille Pissarro/1830-1903)、ドガ(Edgar Degas/1834-1917)、シスレー(Alfred Sisley/1839-1899)といった未来の印象派の画家たちを、周囲の批判をよそに高く評価しました。若手を支持するその強い熱意は、1869年と1870年のサロン(官展)においても同様でした。1870年にモネとシスレーの作品が落選すると、ドービニーはコローとともに抗議を示し、ふたりはサロンの審査委員を辞職するまでに至ります。
モネ、ピサロ、セザンヌ(Paul Cézanne/1839-1906)は、そんなドービニーを慕って、1871年から1872年にかけてオーヴェル=シュル=オワーズのアトリエを訪ねています。オーヴェル=シュル=オワーズのドービニーと、こうした新世代の画家たちの交流が、新しい芸術グループ、印象派の形成の助けになったことはいうまでもありません。
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Update : 2014.8.1 文・写真:増田葉子(Yoko Masuda)
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