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クロード・ドビュッシーの生家マダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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親愛なる日本の皆さまへ

クロード・ドビュッシー(1862-1918)は、20世紀の音楽に大きな影響を与えたフランスで最も偉大な作曲家のひとり。今回は皆さまを、彼の生地であるサン=ジェルマン=アン=レーにご案内いたしましょう。ルイ14世(1638-1715)の生地でもあるサン=ジェルマン=アン=レーへは、パリからRER(首都圏高速鉄道網)で西へ30分ほど。3,500ヘクタールの美しい森に囲まれた素晴らしい環境と生活の質の高さから、世界中の富裕層に愛される街です。

1682年にルイ14世がヴェルサイユに居を移すまでは、歴代フランス王の住居があった場所でもあり、ルネサンス様式の堂々たる城があることでも知られています。長い歴史の中で数々の改築を経た城は、現在では国立考古学博物館となり、ヨーロッパ随一のコレクションを所蔵しています。ヴェルサイユの庭の設計で著名な景観デザイナー、ル・ノートル(1613-1700)が手掛けた長さ2,400mの壮麗なテラスからは、庭園と森そしてデファンスのタワーまでを望む素晴らしい眺望が開けています。

街には今なお、中世の曲がりくねった道がそのままに残されています。そして、その道に沿うようにして豪華な邸宅や、17世紀や18世紀に建てられたつつましくも美しい家々が立ち並んでいます。その中のひとつ、1階がツーリスト・オフィスになっている建物がクロード・ドビュッシーの生家です。国王の建築家ピエール・ル・ミュエ(1591-1669)が考案した設計図に基づいて建築され、18世紀に建て増しされたそうです。建物の主要部分が中庭でふたつに分かれており、ファサードのひとつが路地「パン通り」に面しています。

小さいけれど感じのよいツーリスト・オフィスを通って中庭に入ると、バラスター(手すりを支える小柱)の付いた美しい階段がクロード・ドビュッシーの生家へと続いています。ブールデル(1861-1929)からドビュッシーに捧げられた彫刻《牧神と山羊》(1908-1909年)が中庭を飾っています。それでは、2階へと上がって、天才作曲家の素顔をのぞいてみることといたしましょう。

両親は当初、サン=ジェルマン=アン=レーで陶磁器店を営んでいましたが、商売が立ちゆかなくなったことから、やむなくパリに引っ越します。しかし、自らの生まれた街を愛するドビュッシーは、その後、何度もここに戻ってくることになるのです。その後、ドビュッシーは母親とともに伯母を頼ってカンヌに赴き、そこで初めて音楽のレッスンを受けています。

父親は1871年の民衆蜂起、パリ・コミューンに参加して逮捕され、禁錮4年の刑を受けますが1年後に釈放。息子のクロードは、父の刑務所での知り合いを通じて、ショパン(1810-1849)の弟子で、著名な詩人ヴェルレーヌ(1844-1896)の義母でもあったアントワネット・モーテからピアノの手ほどきを受ける機会を得ることとなったのです。クロードの才能を確信したモーテは名門、パリ音楽院の受験をすすめます。そして、1872年、クロードは難関をくぐりぬけてパリ音楽院に入学。気分屋ながら、才能溢れるクロードは、ここで10年以上の時を過ごしました。その間、1875年頃には、ピアノとソルフェージュの小さな賞を受賞。声楽科の生徒が地方でコンサートをする際には伴奏を務めることもあり、クロードは自分の演奏が注目される、伴奏の仕事をとりわけ好んだといいます。1879年にはシュノンソー城に滞在しています。当時、シュノンソー城には、裕福で風変わりなスコットランド出身の女性が住んでいました。クロードはここで贅沢を知り、熱烈なワグナーファンであった彼女を通じて、ワグナー(1813-1883)の音楽にも出会います。そして同年、アルフレッド・ド・ミュッセ(1810-1857)の詩にメロディーを付けた最初の作品を作曲しています。

Update : 2014.6.1

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