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クロード・ドビュッシーの生家マダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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1880年、音楽院のピアノ教師のはからいで、チャイコフスキーと文通していたことで知られるロシア出身の女性フォン・メック男爵夫人(1831-1894)と知り合います。彼女は、自身が主催する夏のコンサートで、ピアノの連弾をする相手を探していました。クロードは作曲を続けながら、スイス、フランス、イタリア(ここでワグナーとすれ違います)、ウィーン、そしてモスクワと夫人に付き添ってあちこちを旅しました。そして1884年、カンタータ『放蕩息子』でローマ大賞を勝ち取り、留学先のローマでふたりの大音楽家ヴェルディ(1813-1901)とリスト(1811-1886)に出会います。このローマ留学時代の曲の中では、『ピアノと管弦楽のための幻想曲』と、カンタータ『選ばれし乙女』は現代的すぎるとみなされてしまいます。失望したドビュッシーは、留学期間を繰り上げてパリに帰ります。

そして1889年のパリ万博で、インドネシアのガムラン音楽に出会います。従来の西洋音楽にはないリズムやエキゾチックな音色を知ったドビュッシーは、リズムや“新しい”音、という点で影響を受け、ヴェルレーヌの詩による歌曲集『忘れられたアリエッタ』やボードレール(1821-1867)の詩による歌曲集『ボードレールの5つの詩』を作曲するのです。さらに、マラルメの詩の世界を表す交響楽『牧神の午後への前奏曲』(1892-1894年)を発表。この作品はひどく批判された後に、ヨーロッパ全土で大きな成功を収めることになります。
1893年から1902年にかけて、ドビュッシーはメーテルリンク(1862-1949)の戯曲による『ペレアスとメリザンド』の作曲という困難な仕事に取り組みます。この世を去って初めて成就する禁断の愛の物語です。独特のメロディーと非常にゆっくりとしたリズムのこのオペラで、ドビュッシーは詩と音楽を非常に創意に富んだスタイルで融合させたのです。ドビュッシーに国際的な名声をもたらしたこの作品の登場は、音楽史的には「ペレアス前」と「ペレアス後」という表現が生まれたほどの出来事でした。

1908年、ドビュッシーは音楽家のエマ・バルダ(1862-1934)と結婚します。ふたりの間には娘が生まれ、シュシュという愛称で呼ばれていましたが、1919年にジフテリアで亡くなってしまいます。そしてこの時期がドビュッシーの経歴の中でも最も多作な時期でした。ピアノ曲としては『海』、『版画』、『管弦楽のための映像』、『雅やかな宴』、15世紀の詩人ヴィヨン(1431-1463)の詩をもとにした『バラード』、マラルメの詩をもとにした『ステファヌ・マラルメの3つの詩』などを作曲。グルック(1714-1787)、シューマン(1810-1856)、ワグナー、ショパンなどの曲をピアノ曲に編曲しています。また、エリック・サティ(1866-1925)の1番目と3番目のジムノペディを管弦楽用に編曲し、評論家として数々の雑誌に寄稿します。そしてドビュッシーは亡くなる前、サンクトペテルブルクにも赴いていますが、その際には彼の地の作曲家プロコフィエフ(1891-1953)が彼のためにピアノを弾くなどして、敬意が表されたそうです。

ドビュッシーの生まれた家を訪れれば、この偉大な芸術家の人となりと充実した人生、そして深い感受性に裏付けられた革新的な作品をより理解することができるでしょう。ここには、あらゆる芸術の分野で複数の動向(印象派、象徴派、ナビ派など)が起こった、19世紀末から20世紀初頭という創造的な時代の雰囲気がとてもよく再現されているのです。

家の中には、ドビュッシーの作曲に直接的な影響を与えた日常的な品々や、彼の人生を物語る資料が展示されています。最初の部屋に足を踏み入れたわたくしは、マイヨール(1861-1944)作の美しい大理石の彫刻《音楽、クロード・ドビュッシーに捧げるモニュメント》(1932年)に圧倒されました。静かに腰を下ろしたそのヴィーナスのシンプルな美しさといったら! そして左の壁には、愛娘シュシュとの写真やボナ(1833-1922)が撮影した妻のエマ・バルダの肖像写真など、家族の親密な時間を記録した写真が飾ってあります。ドビュッシーは、妻子に深い愛情を注いでいました。

Update : 2014.6.1

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