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ジャン=ジャック・エンネル美術館マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

19世紀、パリ17区は、多くの芸術家が暮らすとてもお洒落な地区であったことをご存知ですか? 本日は皆さまを、このパリ17区、プレーン・モンソー地区の中心に位置するジャン=ジャック・エンネル美術館へとご案内いたしましょう。第三共和政時代(1870-1940)に建てられた個人の邸宅の数少ない遺構のひとつでもあるこの美術館は、つい最近に行われた改装工事を経て、19世紀の雰囲気を見事に取り戻しました。

美術館は5つの階から成っており、画家ジャン=ジャック・エンネルの人生と画業が紹介されています。エンネルは、生前は同時代の最も偉大な芸術家のひとりと見なされ、現在では暗い風景を背景にした赤毛で白い肌の裸婦像で知られた画家です。

エンネルはこの地区やその住人に親しんでいましたが、実際にこの邸宅に暮らしたことはありません。この邸宅は1878年以来、画家ギヨーム・デュビュッフェの住まい兼アトリエとなり、美術館に保存されている手紙によれば、エンネルは幾度となくここに招待されたようです。建物は、建築家ニコラ・フェリックス・エスカリエ(1843-1920)による設計。1876年から1878年に建設され、これまでに計5回、改装されました。デュビュッフェの時代にすでに、ヴィリエ通りに面した北向きのアトリエを2部屋作るために1階を建て増す工事が行われています。1935年、邸宅はさらに2回増築されます。このようにして、邸宅はさまざまな時代や文明を参照して、多様な建築様式が取り入れられていきました。レンガと石を混ぜ合わせた、ヴィリエ通りに面したファサードはルイ13世様式から着想を得たものです。金属の窓はルネサンス様式を思わせます。入り口の鉄柵には、「JJH」というエンネルのイニシャルが加えられ、ファサードには、友人ポール・デュボワ(1829-1905)によるエンネルの胸像があります。1921年、画家の義理の姪マリー・エンネルは、美術館を作るためにこの邸宅を買い取り、1923年、エンネル美術館が開館しました。そして、彼女は邸宅を家具や数多くの資料、とりわけ440点の絵画とともに国家に寄贈しました。現在は、そのうち300点が展示されているのです。

アルザスの農家に生まれたジャン=ジャック・エンネルは、アルトキルシュ村のコレージュ、そしてストラスブールで絵の勉強を始めました。1846年から1855年は、奨学金を得てパリの美術学校やミッシェル=マルタン・ドロラン(1786-1851)、フランソワ=エドゥアール・ピコ(1786-1868)のアトリエで学んでいます。そして1858年、聖書に着想を得たテーマの作品で見事、ローマ賞グランプリを獲得し、奨学金を得て5年間メディチ邸(在ローマ・フランス・アカデミー)への留学を果たします。その間、1860年にはまずフィレンツェとウンブリア州、そして1862年と1864年にはナポリとその周辺と、イタリア各地を訪れました。

1867年にパリに戻ると、ピガール広場11番地のアトリエに落ち着きます。1871年、ドイツ帝国がアルザスを併合すると、エンネルは生まれ故郷とのつながりを保って毎年帰省しながらも、フランス国籍を選びます。そして1874年から1889年、カロリュス=デュラン(1838-1917)とともに「婦人のアトリエ」を運営。これはその名のごとく、当時は美術学校への入学が許可されていなかった女性のためのアトリエでした。1889年には学士院の会員となったエンネルは、毎年展示しているサロンではメダルを得、肖像画の注文が相次ぐなど栄達を極めます。作品のいくつかは国家買い上げとなり、エンネルが亡くなった翌日にはプティ・パレ美術館が展示室を一室使って彼の作品を展示するほどでした。ジャン=ジャック・エンネル美術館は、19世紀フランスのアカデミズム絵画を代表する、この偉大な芸術家の画業を称え、そのアトリエでの仕事を紹介するミュゼなのです。

Update : 2017.4.1

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