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ジャコメッティ・インスティチュートマダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

20世紀の最も偉大な芸術家のひとり、アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)。スイス出身のこの彫刻家の作品は、これまで、フランスはもちろん、世界各地で開催される展覧会で幾度となく紹介されてきましたが、いまだ一般に知られていない作品があったことをご存知でしょうか。とりわけ、脆く、輸送に耐えられない石膏像はその傾向にありました。

そうした作品を初めて一般に公開したのが、去る6月26日、パリ・モンパルナス地区にオープンした「ジャコメッティ・インスティチュート」。ジャコメッティのアトリエを復元した、人間的なサイズの魅力的なミュゼです。作品や身の回りのものなども含めて、ジャコメッティ在りし日のままの姿となったこの空間へ一歩足を踏み入れれば、そこは彫刻家の息遣いさえ感じられそうな世界。悲惨とすら言えそうな、極めて小さく埃だらけのアトリエで過ごした彼の人生、そして芸術に注いだその情熱を、一目で理解することができる特別な場所なのです。

1993年、ジャコメッティの作品の保護と保存に生涯を捧げた妻のアネット・ジャコメッティが亡くなると、ジャコメッティ財団が遺産を受け継ぎます。そして、彫刻350点近く、絵画90点、デッサン2,000点以上という世界で最も豊かなアルベルト・ジャコメッティ・コレクションを所有することになりました。

ジャコメッティの業績と彼の小さなアトリエの魅力を伝えるために、財団はジャコメッティが40年間暮らし、制作したモンパルナス地区にジャコメッティのための地所を探し始めました。こうして、もともとアトリエがあった場所のすぐ近くに最適な場所を見つけたのです。それは、モンパルナス墓地沿いの小径、ヴィクトール・シュルシェ通り5番地に建つ邸宅の1、2階で、かつては装飾芸術家ポール・フォロ(1877-1941)のアトリエとして使われていた場所です。建物の1、2階は1912年から1914年の間に建てられたものでしたが、この度、歴史的な装飾は保存しつつ、完全に改装されました。ファサードの窓を取り囲む花や果物の飾りにはアール・ヌーヴォーの影響が見られ、鉄工芸やモザイクはアール・デコのスタイルです。

アルベルト・ジャコメッティはスイス・グラウビュンデン州のプロテスタントの家庭に生まれ、画家だった父親のアトリエで幼い頃から絵を描き始めました。中等教育を終えると、ジュネーヴの美術学校に入学しますが、生涯、実家との繋がりを保つことになります。1922年にパリへやって来ると、モンパルナスにあるアカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールのアントワーヌ・ブールデル(1861-1929)のアトリエに通います。そこでキュビスムやアフリカ芸術、ギリシア彫刻に出会い、影響を受けました。そして1926年、イポリット=マンドロン通り46番地(14区)のアトリエに居を定め、亡くなるまでここで制作を続けることになります。1930年、同じく芸術家であった弟のディエゴがここに引っ越してきます。同年、ジョアン・ミロ(1893-1983)、ジャン・アルプ(1886-1966)とともにピエール画廊で展覧会を行います。1931年、シュルレアリストのグループに加わりますが、1935年に離脱。この時期、ジャコメッティが研究していたのは、頭と目がその神秘を反映する人間の顔をいかに表現するかでした。

第二次世界大戦中の1941年から1945年は、スイスに戻り、非常に小さな彫刻作品の制作に没頭します。その後パリに戻ると、アネット・アームとともに暮らすようになり、1949年彼女と結婚します。1946年から1947年には新しいスタイルに取り組み、《歩く男》や《指差す男》のような、極めて細長いフォルムの、独自の人物像をつくり出しました。1948年、ジャコメッティは戦後初めてニューヨークのマティス画廊で展覧会を開きます。続いて1950年に同ギャラリーで、彼の彫刻作品のうち最も知られたいくつかの作品《台座の上の4人の女性たち》《台座の上の4つの小像》を展示。1951年にはパリのマーグ画廊で展覧会を開催しました。

Update : 2018.10.1

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