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エスパス・ダリ Espace Dalíマダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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親愛なる日本の皆さまへ

ポンピドー・センターで開催されたダリの大回顧展が大成功を収めたことは、皆さまもご存じのことでしょう。そこで、今月は皆さまを「エスパス・ダリ」へとご案内いたしましょう。この手の施設としてはとてもユニークで、世界にその名を知られたスペインの芸術家──エキセントリックかつエゴセントリック、神秘主義的で曖昧──複数の顔を持つサルバドール・ダリ(1904-1989)のフランス最大の彫刻コレクションが展示されています。モンマルトルのかつての蝋人形館という風変わりな場所が、1991年以来、「エスパス・ダリ(ダリのスペース)」となった空間です。

モンマルトルへのアクセスはとても簡単。目印はパリ中から見える、輝くばかりに白い象徴的なモニュメント、モンマルトルの中心にそびえるサクレ・クール寺院です。少し急な階段、あるいはサクレ・クール寺院前のテラスに直接行けるケーブルカーをご利用になってください。

モンマルトルといえば、20世紀初頭に多くの芸術家たちがアトリエを構えたことでよく知られています。例えば、キュビスムの運動が生まれた有名な「洗濯船」があったのもここでした。趣のある小道やカフェ、キャバレー、小さなブドウ畑……。モンマルトルには、今なお、芸術家たちが闊歩したかつての風情が色濃く残されています。小さな家々に囲まれたテルトル広場は、画家と肖像画描きが集う特別な場所。とりわけ、多くの観光客が広場を埋め尽くす前の早朝は、在りし日のこの街の魅力を彷彿とさせます。この広場を横切ってパリの豪奢な眺めを堪能し、プルボ通りへ出れば、エスパス・ダリはすぐそこです。

ダリは、スペイン北東部カタルーニャ地方のフィゲーラスに生まれました。ダリの誕生は同じくサルバドールと名付けられた兄が亡くなって9ヵ月後のことで、ダリは兄の面影を消すためにあらゆること、とりわけ挑発的な行為を繰り返しつつ、成長してゆくことになります。兄の死は、ダリの人格形成に決定的な影響を与えたのでした。
ダリが絵画への確かな関心を表明したのは、16歳のときのことでした。そして1922年にはマドリッドの美術学校へ入学。生来の反抗精神が災いし、やがて、退学処分の憂き目にあうことになるものの、ダリはこの学校で、後に映画監督となるルイス・ブニュエル(1900-1983)や詩人のガルシア・ロルカ(1898-1936)と出会い、友情を育みました。

その後、最初のパリ滞在の際にピカソを訪ね、1929年にはパリに居を定めます。そしてブルトン(1896-1966)やマグリット(1898-1967)、エルンスト(1891-1976)、エリュアール(1895-1952)といったシュルレアリストたちと親しく付き合い、一時期は、自動記述による、いかなる自己検閲もない自然発生的な表現方法を主張するといった、彼らの理論に与するようになります。そして、パリに暮らし始めて間もなくの1929年の夏、エリュアールとその妻ガラ(1894-1982)が、スペインのカダケスにあるダリの家を訪れました。ダリはガラへの熱烈な恋に落ちました。やがてガラはダリの恋人、そしてミューズとなり、1934年、ふたりは結婚。その後もガラはダリの作品に頻繁に登場することとなったのです。

ダリはあらゆる芸術に関心を向けました。ブニュエルとともに手がけた映画『黄金時代』(1930年)では、その暴力性とエロティシズムによってスキャンダルを巻き起こします。その一方、絵画においては、考え方の相違によりシュルレアリスムのグループから除名されながらも、1938年には、ブルトンとエリュアールがパリで企画した国際シュルレアリスム展に参加するなどの活躍を続けました。

第二次世界大戦中、ダリはガラとともにニューヨークに移ります。ダリが数多の傑作を生み出し、ニューヨーク近代美術館(MoMA)をはじめとするさまざまな会場で展覧会を開いた実り多き時代です。さながら道化のように無茶苦茶な奇行やおかしな話を繰り広げるダリは、アメリカ中を楽しませ、一躍、有名人となります。そして何にでも手を染め、シュルレアリスム的オブジェ、宝飾品、バレエの舞台装置、映画のセットなどを制作。1942年には自伝『サルバドール・ダリの秘められた生涯』を出版します。


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