ウィーン郊外で彫金師の息子として生まれたグスタフ・クリムトは、1876年、14歳でウィーンの美術工芸学校へと入学しました。1880年には同学に在籍していた弟のエルンスト・クリムト(Ernst Klimt/1864-1892)と学友のフランツ・マッチュ(Franz Matsch/1861-1942)とともに、劇場装飾や壁画を請け負う仕事を始め、その後3人による工房「芸術家商会」を設立します。当時ウィーンでは大々的な都市改造が行われていたことから、3人の工房は順調に公の建物の装飾を受注し、その実績を重ねていきました。1880年代半ばにはウィーンのブルク劇場やウィーンの美術史美術館の階段の装飾を手掛け、大きな評価を得ることに成功します。
しかし1890年代以降、弟エルンストの死に加えウィーン大学の大講堂の天井画のスキャンダルによって工房は衰退の一途を辿ることになります。このスキャンダルは、大講堂を飾る「哲学」「医学」「法学」をテーマにした3部構成の天井画に、クリムトが老若男女の裸体を前衛的な表現で描くことを構想したことに端を発しました。その官能的な表現は、大学側から若者の精神を乱す「ポルノグラフィー」であると汚名を着せられてしまうのです。「哲学」は1900年のパリ万博に出品され金賞を受賞するなど、国際的な評価を得たのにもかかわらず、最終的にこれらクリムトの3作品が大学に飾られることはありませんでした。
このスキャンダル以降、クリムトは公の注文からは遠ざかり、保守的なアカデミスムにも距離を置くようになります。そして1897年、クリムトはヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザー(Koloman Moser/1868-1918)など19人の仲間とともに、「時代にはその芸術を、芸術には自由を」のスローガンを掲げ、ウィーンで「分離派」を結成するに至ったのです。翌年には第1回分離派展が行われ、その後ウィーン市内に分離派専用の展示施設である「セセッション館」も建設されたことで分離派の展覧会が定期的に行われるようになりました。
クリムトは象徴派のスタイルを引き継ぎながら、とりわけ女性の姿からインスピレーションを得ていました。クリムトが描くことを得意とした「はかない女」、「ファム・ファタール(運命の女)」の姿は、甘美で誘惑的な表情を見せると同時に、死への不安やフロイトの精神分析の世界を匂わせます。エロスと神々しさを織り交ぜた美が、クリムト独自のモダンを表現してたいへん印象的です。
1905年、クリムトは内部分裂を機に、数人の初期メンバーとともに分離派を脱退しますが、脱退後も数々の女性のポートレートを描きながら国際的なアーティストとしてヨーロッパ中を旅しました。オーストリア出身の画家、エゴン・シーレ(Egon Schiele/1890-1918)は、クリムトの直弟子のひとり。クリムトの新しさを追求するエスプリは若い画家たちによって受け継がれ、ドイツやオーストリアにおける表現主義へと変貌を遂げていったのでした。
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Update : 2015.5.1 文・写真:増田葉子(Yoko Masuda)
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