ソフィ・マカリウ館長:ギメ東洋美術館はリヨンの実業家である、エミール・ギメ(Emile Guimet/1836-1918)のイニシアチブによって、パリに1889年に誕生しました。当初ギメは地元のリヨンに美術館を創りましたが、大都市にもかかわらず来館者を多くは集めることができなかったため、美術館をパリへと移設し、新たに開館したのです。
ギメはもともと比較宗教の美術館を創りたいと考えており、その興味は早い段階でヨーロッパからエジプトへと向けられます。エジプトへ渡ったギメは、作品を購入してコレクションを収集すると同時に、研究や発掘作業のための資金供給を行いました。さらにその情熱は、アジアの宗教の分野へと注がれ、ギメはエジプトの遥か遠方であるアジアの国へと旅立ちます。
ギメは画家でイラストレーターであったフランス人のフェリックス・レガメ(Félix Régamey/1844-1907)と出会うと、旅の資金を負担することを条件に日本に同行することを提案しました。そして2人は1876年に日本に6ヶ月近く滞在します。ギメとレガメは通訳とともに日本の大きな仏閣をたずねて回り、情報収集を行い、資料やデッサンを大量に残しました。また仏教彫刻など、大量の作品購入を行ったのです。非常に興味深く斬新だったのは、ギメが京都の東寺の曼荼羅の完璧な複製を注文し、パリに持ち帰ったことです。
1889年、ギメは国から譲り受けたパリ市内の敷地に、リヨンの美術館と類似した造りで、より改善したものを建てました。その建物のメインに据えられたのが、比較宗教の展示や日本の曼荼羅(まんだら)でした。このようにギメ東洋美術館の初期の歴史の中で、日本美術は重要な位置を占めていたのです。
ギメは亡くなる1918年までこの美術館の館長を務めました。その死後も、ギメによって発行された出版物がアジア専門の有識者の関心を集め続けたことにより、美術館はアジアのコレクションを充実させていきます。第二次世界大戦後、フランス政府がアジア美術を1ヵ所に集めることを決定すると、中国の陶磁器をはじめとしたルーヴル美術館のアジア部門のコレクションは、すべてギメ東洋美術館へと移り、国立の東洋美術館が生まれました。代わりにギメのエジプトのコレクションはルーヴルへと渡ります。その後も研究機関からカンボジアの美術作品などの寄贈があり、ギメ東洋美術館はアジア以外の国でもっとも大きな東洋美術専門の美術館となったのです。世界のほかの美術館と一線を画しているのは、アフガニスタンから日本まで、アジア全体の宗教美術や世俗の美術をさまざまなアプローチで徹底して網羅している点です。たとえば王室由来のコレクション、考古学の発掘作業によるコレクション、コレクターの好みがうかがえる作品群や写真家による素晴らしいコレクションなど、他に類を見ないコレクション内容を誇っています。
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Update : 2015.7.1 文・写真:増田葉子(Yoko Masuda)
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