シネマテーク・フランセーズ

毎年春から夏にかけて、フランスは“シネマの季節”を迎えます。3月に「映画の春(Printemps du Cinéma)」、6月には「映画祭り(Fête du cinéma)」という映画が割安で見られるイベントがあり、多くのフランス人が映画館へ足を運び、また5月にはフランスのみならず全世界が注目する映画の祭典「カンヌ国際映画祭(Festival International du Film de Cannes)」も開催されます。そこで今月は、フランス人にとって最も身近な娯楽「映画」の博物館をご紹介します。ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠たちも、若かりし頃に通い詰めた映画の聖地「シネマテーク・フランセーズ」です。

希代の“映画狂”ラングロワがつくった映画の殿堂

シネクラブからシネマテークへ 映画のすべてを愛したアンリ・ラングロワの試み

▲シネマテーク・フランセーズの創設者となるアンリ・ラングロワ
©Coll. Cinémathèque française

 映画がサイレントからトーキーへの移行期にあった1935年、映画をこよなく愛するひとりの青年が、パリで「セルクル・デュ・シネマ (Cercle du Cinéma) 」というシネクラブ*をつくりました。のちに“ヌーヴェル・ヴァーグの精神的父”と評されるアンリ・ラングロワ(Henri Langlois/1914-1977)です。当時のパリでは、シネクラブを主宰する映画作家や批評家は少なくありませんでしたが、彼らとラングロワは主に2つの点で全く異なっていました。ひとつは「映画に貴賤はない」をモットーに、あらゆる映画を上映したこと。「名作は各人の心から生まれる」と考えたラングロワにとっては、すべての作品が“名作”だったのです。そしてもうひとつは、いち早く「映画フィルムの保存」に着眼したことです。当時のフィルムは傷みが早く、また燃えやすい素材で、映写室や編集室での火事が世界中で相次いでいました。

▲『カリガリ博士』のセットのデザイン画(1920年)

 そこで1936年、ラングロワは友人で後に映画監督となるジョルジュ・フランジュ(Georges Franju/1912-1987)を誘い、フィルムの保存・修復・上映を目的とした「シネマテーク・フランセーズ」を設立。蚤の市や映画の工場跡を回って新旧の映画作品を収集し、さまざまな場所で映画の上映会を運営しました。収集作品の中には、マジシャンのジョルジュ・メリエス(Georges Méliès/1861-1938)が1900年代に撮影した世界初のSF映画や、ドイツのローベルト・ヴィーネ(Robert Wiene/1873-1938)が1920年に発表した『カリガリ博士』といった、未来の映画人たちに多大な影響を与えることになる作品もありました。ラングロワたちの映画の保存活動を知り、自ら作品を寄付する監督も現れました。第二次世界大戦中には、数多くの貴重なフィルムがドイツ軍に没収され、処分されたものもありました。それでもシネマテークのメンバーは密かに映画のフィルムを収集し続けました。カンヌ国際映画祭(1946年に誕生)はまだ存在せず、映画を芸術ととらえる人も少なかった時代のことです。

シネクラブ*興行に乗らないような実験的な作品や映画史上の名作を上映し、映画にまつわる講演や討論会を開催する自主機関のことで、1920年代のフランスで生まれ、やがてアート・シアターにつながる運動となる。ラングロワのシネクラブは、あらゆる作品を差別せずに上映し、討論をせずに純粋に映画だけを見せるという点において、ほかと一線を画していた。

トリュフォーやゴダールを育てた常設上映館と映画にまつわる“すべて”を展示する博物館

▲1959年のアンドレ・マルロー(左)とラングロワ
©Coll. Cinémathèque française

 第二次世界大戦後の1948年、シネマテークはパリ8区、モンソー公園近くのメッシーヌ通りに常設の上映館をオープンします。わずか50席の小さな会場はすぐに満席になり、通路に座り込む観客が出るほどのにぎわいを見せました。こうして集まったシネフィル(cinéphile=映画狂)の中に、後にヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督となるフランソワ・トリュフォー(François Roland Truffaut/1932-1984)やジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard/1930-)、ジャック・リヴェット(Jacques Rivette/1928-)、エリック・ロメール(Éric Rohmer/1920-2010)といった10代から20代の若者たちがいました。彼らが後に口をそろえて「わたしたちはシネマテークで育った」と宣言するように、彼らはここで出会い、無数の映画を見て、フランス映画界を牽引する映画人に成長していったのです。彼らは1回券で何度も映画を見るという“タダ見”をしたといいますが、ラングロワは「満員なのに入場券が10枚しか売れていないとは!」と嘆きつつも、映画見たさゆえの“ズル”を見て見ぬふりをしていたというエピソードも残されています。

▲ラングロワ
©Coll. Cinémathèque française

 常設館には、映画にまつわる“すべて”を展示する博物館も併設されていました。ラングロワは映画のフィルムだけでなく、撮影に使用した衣装や美術セットの模型、絵コンテ、台本、そして映写機やカメラなどの収集も始めていたのです。メリエスの映画スタジオが売却される際も、撮影に使われたものをシネマテークの重要な所蔵品として持ち帰っています。そして、映画草創期のカメラや映画の誕生のきっかけとなった発明品なども展示する博物館は、映画の芸術性を伝え、映画と深いかかわりを持つ技術の歴史も紹介する施設として、高い評価を得ることとなりました。1959年に作家のアンドレ・マルロー(André Malraux/1901-1976)**が文化相に就任すると、その支援のもと、さらに所蔵品を増やし、博物館は1972年にはパリのトロカデロ広場に面するシャイヨー宮に移転。「映画博物館(Musée du Cinéma) 」としてオープンします。この博物館は世界各地の映画ミュージアムのモデルとなりました。

▲現在のシネマテーク・フランセーズの外観
©Coll. Cinémathèque française

 ラングロワは1977年にこの世を去りますが、その20年後、シャイヨー宮の映画博物館で火災が発生します。奇跡的にも所蔵品は無事でしたが、建物は閉鎖を余儀なくされました。そして2005年、フランスが誇る映画の殿堂シネマテーク・フランセーズは、パリ12区のベルシー地区に新たにオープン。映画博物館は「ミュゼ・ド・ラ・シネマテーク(Musée de la Cinémathèque)」に名を改めて再出発することになったのです。

アンドレ・マルローとシネマテーク**文化相として一貫してシネマテークの重要性に深い理解を示したマルローだったが、独自のやり方でシネマテークを運営するラングロワを快く思わない財務省からの圧力を受けて、1968年2月、彼は突如ラングロワを更迭する。しかし、トリュフォーやゴダール、アラン・レネ(Alain Resnais/1922-)といったフランスの映画人がこぞって批判活動を行ったほか、チャップリンやジョン・フォード、黒澤 明といった海外の映画人からも批判が相次いだため、ラングロワは2ヵ月後に復職することとなった。

Update : 2011.5.1
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PARIS MUSEUM PASS 利用可能施設 シネマテーク・フランセーズ

シネマテーク・フランセーズ

  • 所在地
    51 rue de Bercy 75012 Paris
  • Tel
    +33 (0)1 71 19 32 00
  • Fax
    +33 (0)1 71 19 32 01
  • E-mail
    contact@cinemathequefrancaise.com
  • URL
    http://www.cinematheque.fr
  • 休館日
    火曜日、1月1日、5月1日、12月25日
  • 映画鑑賞料
    一般:6.5ユーロ
    割引料金:5ユーロ
  • アクセス
    地下鉄6番線または14番線のBercy駅下車

映画博物館

  • 開館時間
    月・水〜土曜日:12:00-19:00
    日曜日:10:00-20:00
  • 入館料
    一般:5ユーロ
    割引料金:4ユーロ
    18歳以下:2.5ユーロ
    *日曜日の10:00〜13:00は無料

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