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![]() ©Pierre-Yves Mahé / Maison Nicéphore Niépce |
ニセフォール・ニエプスは1765年3月7日に4人兄弟の3番目として、ブルゴーニュ地方南部に位置するシャロン=シュル=ソーヌの町に生まれました。父親は弁護士で母親も地元の名士の家柄であったことから、ニエプス家はシャロン近郊に多くの土地を所有する大変裕福な家庭でした。1793年に、ニエプスはフランスの革命軍に参加し、サルデーニャ王国へ派遣されます。ここで初めて光を使用してイメージを映し出すことに関心を抱いたといわれています。
その後しばらく、フランス南部やイタリアを転々とした後、1801年に彼は生まれ故郷のシャロン=シュル=ソーヌに戻ってきます。この時、すでに36歳。少し遅咲きの天才発明家の物語はここから始まります。まずは、ニエプスの発明の道のりを順に辿ってみましょう。


ニエプスの最初の関心は、カメラ・オブスクラ(camera obscura)という道具に向けられます。この道具は、19世紀初頭の風景画家たちが遠近法を用いて作品を描くためにしばしば利用したもので、カメラの原型のようなものでした。箱の一方に空けた小さな穴を通じて、外の風景が暗い箱の内壁に反転して映し出されるのです。画家たちはそこに映し出された映像を紙に写しとることで、よりリアルな風景を描くことができました。ニエプスは、このカメラ・オブスクラに投影された映像を光の効果を利用して紙や板などに固定できないかと考えたのです。

ニエプスは、光が当たると黒く変色する塩化銀の性質に着目し、カメラ・オブスクラの内壁に塩化銀を上塗りしておいた紙を置くことを思いつきます。すると光の当たった部分のみ黒く映し出され、それによりネガティブ画像を得ることができたのです。彼がこの実験に成功したのは1816年の5月のことでした。ただ、この時点でこのネガ画像を写真と呼ぶにはふたつの課題をクリアする必要がありました。ひとつはネガではなくポジの画像をどのように得ることができるのか。そしてもうひとつは、時間の経過とともに画面全体が真っ黒に変色してしまうネガ画像をどうしたらそのままの状態で保持することができるのかということでした。

ひとつ目の課題は難なく解決策を見出すことができました。気体状のヨウ素を充満させた箱の中に銀板を入れると、保護膜のない部分(光の当たらなかった部分)はヨウ化銀の化合物となり、光に当たって黒くなります。これにより白と黒が反転するのです。
1817年にニエプスが慕った兄のクロードがロンドンへ亡命してしまうと、フランスにひとり残されたニエプスは写真発明までの道のりをひたすら孤独に突き進みました。

ネガからポジへの問題は解決したものの、その後数年をかけてふたつ目の課題にニエプスは取り組みます。どうしたら得られたイメージを半永久的に保持することができるのか。この難題解決の過程で奇跡を起こしたのが、アスファルトの一種であるユデアの土瀝青(bitume de Judée)と呼ばれる物質の発見でした。この物質の、光に当たると固まり水に溶けなくなるという性質に着目したのです。金属板にラベンダーのエッセンス液で溶かした土瀝青を上塗りし、カメラ・オブスクラ内部に設置し待つこと数日(専門家によれば少なくとも2日はかかったと考えられています)。金属板を水で洗い流すと、世界初の写真画像が浮き出し、それはそのまま消えることがありませんでした。1824年9月16日付の手紙の中でニエプスはこの成功をロンドンに住む兄クロードへ報告しています。この写真技術を彼は「太陽で描く」という意味の「エリオグラフィー(héliographie)」と名付けました。
- インフォメーション・センターでは、ニエプスやパリ写真月間を特集したフランスの雑誌や、写真の歴史に関する書籍を閲覧いただけます。

- 2年に一度、偶数年の11月にパリで開催される写真をテーマにしたイベントです。市内の美術館やギャラリー、さらに学校や文化センターなど多くの文化施設で、さまざまなテーマの写真展や講演会が開催されます。
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